軽い体重の、しかし重い足取りの足音がして、ハスクは顔を上げた。
目をやると、薄い寝間着に一枚羽織っただけの格好で、ヴァギーが歩いてきた。
地獄の住民の顔色は基本的にわかりにくいが、まあ、どんなやつでもしばらく一緒に過ごせばなんとなくわかるようになる。どう見ても具合が悪そうだった。
「ハスク」
「おう」
「お酒、なんか、……ごまかせるヤツ」
言い切ると、ヴァギーはカウンターに倒れ伏す。
おお、こいつもこんなになるんだなあ、とハスクは物珍しげに数秒眺めてから、ため息をついた。
「ダメ」
「……」
「おうコラ、ダメっつってんだろ」
ため息とともにカウンターの裏に回ろうとするので押し戻す。なんとも軽々押し戻されていくので、本当に弱っているようだ。
「なんだって酒欲しいんだよ、いっつもそんな飲まねえだろ」
「痛いのよ、目……」
「目ぇ?」
お前そっちは無いじゃないか、と言いかけて思い当たる。
「幻肢痛ってやつか?幻眼痛とでも言うのかね」
「知らない……たぶんそうなんじゃない……?」
ぎゅうっと自分の頭を抱くように突っ伏したままうずくまる様子は見慣れないもので、ハスクは、ちょっとでかい声を出してチャーリーを呼ぼうかと思ったが、やめた。
そもそもこいつらは同じ部屋で眠っているのだ。
きっと恋人を起こさないように細心の注意を払って這い出てきたのだろう。
「薬は」
「効かない」
「いつもやってる対処法はないのか?」
「効かなかった、だからここ来たの」
あんたたちがいつもやってるから、とうめくような声を聞いて、ちょっと驚いた。
そうか、普段こいつは何かひどいことがあっても酒にすがる習慣がないのだ。
何をしても逃げない痛みをごまかせると、エンジェルやハスクを見て思ったのだろう。
「ダメだ、そんなんで飲んだらゲロ吐いて悪化するだけだ。呑み散らかしてきた俺が保証してやる。そもそも飲み慣れてねえだろう」
返事はもはや曖昧に呻く声だけだった。正直持て余すが、放ってもおけない。
「気紛らわせろ、気。ほら。俺の肉球触るか」
そう言ったのはとにかく色んなヤツが触りたがる部位だったからだ。
ハスクをネコちゃんだと思い込んだ愚かものたちは、皆肉球を触ろうとする。
手をカウンターに差し出すと、腕と髪の隙間から、一つしか無い目がチラリと見えた。
おお、興味があるのか、お前のようなヤツでも。
手が伸びてきた。紫がかった手が肉球に触れると、やけに冷たい。
冷えてしまったのだろう。フニフニと触られるとくすぐったいが、仕方ない。酒すら出してやれないのだから、少しくらいは耐えることにする。
「……思ったより硬い」
「こんなんでもオッサンの手だからな。……お前、手めちゃくちゃ小さくねえか?」
「あんたたちが全員でかいだけ」
まあ、確かに、生きていた頃は190なんてでかい方だったはずだ。今となっては190じゃあさして珍しくもない。
「でかすぎて着ぐるみみたい」
「遊園地とかのか?」
「うん……」
「行ったことあんのか」
「ない」
「なんだよ、じゃあピザ屋?」
んん、と曖昧な返事が返る。そういえばこいつは死んだ年がそう遠くなかったはずだ。たしか2010年に入ってから死んだと言っていた……ハスクの知る着ぐるみとはもうずいぶん異なったものが闊歩していたのかもしれない。
いや、2010年代に死んだにしちゃあ、しっかりしたヤツだ。というより、2000年に入る前に死んだあらゆる人生の先輩であるはずの自分たちがひどいのか……
預けた片手と反対の手を顎に当てて自らを省みようとして嫌になってやめたころ、ホテルのエントランスの扉が開く。
「たっだいま!」
「おかえり」
深夜だが、元気のいい帰宅だ。今日はそこまでハードじゃなかったらしい。
エンジェルが歩いてきて、バーカウンターに腰掛ける。
「……声ちっちゃい方がいい感じ?」
「察しがよくて助かる」
別にいい、と突っ伏したままで低い声がしたが、エンジェルは肘をついて黙ったままだった。
「具合悪いの?」
「えぐられた方の目ン玉が痛えんだと」
「ないのに?」
「なくなった体の部位が痛むってのは結構あるこった。幻肢痛って聞いたことないか?ともかく痛いし薬も効きにくいから気紛らわせようとしてる」
「ふーん……で、肉球?」
「そうだ。酒以外ってなると思いつかなくてな」
「酒以外、か~……クスリ!トべる方の」
「やめて」
「やめろ」
がっつりと否定を食らい、エンジェルは再び腕を組んで考え込んだ。
「ねーえ、ちょっと触ってもいい?手だけさ」
ヴァギーはゆっくりと起き上がり、ん、と手を差し出す。エンジェルは一番上の二対の手から手袋を引き抜いて、その手をつかんだ。至極優しい手つきだった。
「冷え冷えじゃん、寒い?」
「ちょっとだけ」
ブランケットかなにかあればいいのだが、とっさに手に届く範囲にはない。取りに行くかと動きかけたとき、エンジェルが声をかけてきた。
「ねーハスク、手担当交換したからさあ、ホットミルク作ってくんない?カクテル用の牛乳あるよね」
「ああ、そりゃいい」
酒なしで使うのは違和感があるくらい酒にしか使っていないミルクを鍋に注いで、カウンターの裏のコンロにかける。ホットワイン作りにしか使われていなかった鍋だ。
「あんたの手、ハスクより柔らかい」
「ふわふわだろ?胸のがふわふわだぜ、トクベツに触らせてあげよっか」
「いらない」
「言い方さぁ」
視界の端でくせ毛の細長いのと直毛のちっちゃいのが小さい声でじゃれている。なかなか悪くない景色だ。ハスクはふっと微笑んで、鍋に向き直る。
ふと思いついて、ハチミツを引っ張り出して垂らし、中身をかき混ぜる。
たまには甘いのもいいだろう。
立ち上る温かく湿った空気がヒゲにまとわりついてくる。
「よく痛くなるわけ?」
「たまに……月三回くらい」
「それは結構、『よく痛くなる』の範疇だろ」
「でも……こんなにいたいの久しぶり」
「そっかァ」
聞こえる会話に耳を傾けるうち、鍋の中は十分温まったようだ。
カップを3つ取り出して、鍋をゆっくり傾ける。
湯気を立ち上らせながら、カップに液体が満ちる。
「まあ、これは結局必要だよなあ」
「あ、いいじゃん」
そして最後に、ブランデーを少し垂らす。空気に乗って、酒の香りが鼻腔をくすぐる。
「ハスク、なあ、アンタの分?それ……入れすぎじゃね」
「俺はいいんだ。割ってるだけマシだ」
二人の前にカップを置く。
「熱いから気いつけろ」
「ありがと」
「サンキュー」
言ったそばから、あち、と声がした。
「……いいにおい」
「お前のはちょっと香る程度にしか入れてねえからな」
「俺のは結構入ってる」
「だって入ってたほうが嬉しいだろ?」
「まあね」
みんながカップに口をつけて、ほんの一瞬音が失せる。
町から離れたこのホテルは、夜はしっかり静かになる。
「今日はユルかったから酒飲んで夜更かししようと思ってたけどこりゃ眠くなるや」
「俺もお前が呑むかなと思って開けといただけだしな」
「待っててくれたわけ?へへへ」
「そうだ、待っててやったんだ。へへ」
声が乗らないあくびの吐息が聞こえた。
「眠くなったんだ」
カップのふちに口をつけたまま、長いまつげが伏せられて、ゆっくりと頷いた。
「部屋連れてってやろうか」
「うーん、なあ、そこのソファで寝ちゃわない?チャーリー起こすのヤダろ」
また、ヴァギーは黙ったままこっくりと頷く。
エンジェルはカップを置いて、自室の方に駆けていった。たぶん毛布を抱えてくるのだろう。
「おい、一回置いときな。こぼしそうだ」
「うん」
今日何度目かわからない感想だが、よくもまあ、こいつがこれほど弱るものだ。
痛み、とくに頭痛はあらゆる気力を奪う事は知っている。が、ハスクの場合、頭痛とは大概自業自得、飲酒によるものだ。とくに理由無く痛むというのは気の毒というほかない。
「持ってきた!」
「なんかワクワクしてねえか?お前」
「お泊まり会みたいじゃん」
「ホテル宿泊がロビー雑魚寝になっただけだろ!」
くふ、と小さい笑い声がした。目の開きが普段の三分の二くらいのヴァギーが笑っていた。
「そうね。ちょっと楽しいよ、ありがとう」
「だろ?……てかマジで眠い、明日シャワー浴びよ」
「俺もだ、は~ぁァ……」
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