目を開く。冷えた汗で体が濡れていた。
わんわんと頭の奥に雑音が響く。意味の無い音の中にちらほらと、聞き覚えのある罵倒が聞こえる。その向こうから自分の荒い呼吸が聞こえる。
目の奥がズキズキと痛む。痛み止めが切れたのだ。
ヴァギーは体を起こした。目が痛む。背が痛む。抜けた血が戻りきっていないのか、頭の中が揺れる心地がした。
窓から明かりが差し込んでいる。差し込んだ明かりはカーテンの隙間からベッドに影を作っていた。
地獄はどこか薄暗い。
明るい照明の飾られた住居の中にいても、どこか明るくなりきらない。照らされた場所以外はほんのりと暗いままだ。
しかし、どこもかしこも照らし尽くされて影の見えない天国より、ずっとましだと思った。
少なくとも、頭が痛むとき、むやみに目に光が刺さらない。
痛みに耐えてうつむくときに、誰も顔を覗き込んでこない。
大きく息を吸う。血が巡る。頭の血管が痛む。目の虚が痛む。骨のきしみが背に響く。熱を持った傷口が鬱陶しい。
どうしたって痛む。もう一度横向きに寝転がり直して、背を丸めた。目を閉じる。閉じた目の奥にちかちかと光が瞬く。痛い、鬱陶しい。苦し紛れに指先を噛む。痛いところが増えただけ。耳鳴りもやまない。
もう一度、体を起こす。
やっぱり水でも飲もう、どうにもならない。まだ眠り直せない。
ベッドの傍らのピッチャーに手を伸ばし、数度手を揺らしてその取っ手を握りしめた。
まだ遠近感が掴めない。目は二つは無いと不便であることをこの二日で強く思い知った。
グッと持ち上げようとして、ヴァギーは焦った。痛みのせいか、寝起きのせいか、力が入らない。慌ててもう片方の手を添えようとしたが、間に合わない。ピッチャーは派手な音を立てて床に落ちた。
カーペットが台無しだ。拾いあげようとベッドを降りようとして、ヴァギーはふらついて自分も床に落ちた。
……弱りすぎだ。
いつもいかに一方的な攻撃をしていたか思い知る。自分が傷をおえばこんなものか。あまりにも情けない。立ち上がる気力を少々失いながら、しばしカーペットを見つめる。いけない、水浸し。ピッチャーだけ起こす。
深くため息をつくと、一瞬忘れた頭痛が戻った。そのまま頭を抱えてうずくまる。濡れて冷えた手で顔を触ると熱かった。ああもう、くだらない。
しばらくこうしているか、と思い始めた頃、ばん!と音を立てて扉が開いた。
顔を上げると、ボサボサ髪の少女が心配そうにこちらを見ていた。
「ヴァギー!大丈夫……!?」
駆け寄ってきた足元は靴を履いているのかと思ったが、よく見たら裸足で、ひづめがついていた。そうなんだ、と頭のどこかでぼんやりと思う。
「ごめんなさい、チャーリー……お水こぼしてしまって」
床を指さすと、チャーリーは丸くて大きな目をぱちくりさせた。あ、暗がりだとちょっと光るんだ。
「あ!これが落ちた音だったのね……いいのよ!それよりどうしたの?どうして床にいるの?」
チャーリーは優しく喋るが、人の声も自分の声も中々どうして頭に響く。吐き気が込み上げて、うう、と呻くと、チャーリーは慌てて体に手を添えて、ベッドに抱き上げてくれた。細い腕なのに力持ちだ。
「あなたも落っこちちゃったの?」
喋るのが嫌になってきて、頷く。
「嫌な夢を見たの?」
ヴァギーの体調を知ってか知らずか、チャーリーは声のトーンを落としてくれた。
小さく頷くと、そっか、と心配そうに目を細めて、隣に座った。案外大きな白い手が、そっと肩に添えられて、優しく抱き寄せてくれた。抵抗する気にはならなかった。
「傷、痛む?」
頷く。
「頭痛い?気持ち悪い?」
頷く。チャーリーは頷いて、小声で何かを呼んだ。すると開いた扉の向こうから、小さなヤギのような、爬虫類のような生き物が勢いよく飛び込んできた。
「ラズル、ダズル、夜にごめんね。お水と痛み止め持ってきて?」
二匹、あるいは二人はビッと額に手を添え、敬礼の仕草をとり、飛び去っていった。
「汗かいてるわね、着替える?……動ける?」
答えあぐねていると、いっか、薬が効いてからねと優しい声が降ってきた。
ほどなくして、またパタパタと羽の音がしてきた。
ラズルとダズル……どちらがどちらかわからないが、片方は薬を一シートとコップを、片方は水がなみなみ満ちたピッチャーを抱えていた。彼らは大きな爪のある指で、器用に薬二粒とコップに注がれた水を用意して、差し出してくれた。
「ありがとう」
出した声の掠れていることに驚いた。喉も渇いていたのだ、痛みで気づかなかった。二粒を一度に口に放り込み、コップに口をつける。冷えた水が喉を通るのが気持ちよくて、一息に飲み下す。喉の奥から頭の芯が冷えるような気がした。
空になったコップはすぐにチャーリーがとり、ベッド際のチェストの上に置いた。
ラズルとダズルは濡れた床をサッと拭き、落ちたピッチャーを拾い上げ、二人仲良くお辞儀をして部屋を去っていった。
呆けていると、チャーリーがまたヴァギーの肩に手を添え、それから頬に向かって撫で上げた。
「熱っぽいわ、辛かったでしょ」
辛かったといえばそうなのだろうが、素直にうんという気にはならなくて、黙ったままでいると、軽く申し立てるように抱きしめられる。無抵抗でいたら、さらに抱き寄せられた。
情欲のからまない、優しい手つきだ。
例えば善良な母や姉がいたのなら、きっとこういったことをしてくれるのだろうと思う。
「薬が効くまでの辛抱よ」
正体が知れていないにしろ、そもそも他人だというのに、なぜこうも自分に優しいのだろう、とヴァギーは不思議に思った。
「……ごめんなさい、迷惑をかけて」
散々自分が手にかけた地獄の住人を愛し、自分たちが荒らした土地で生き残りを探して回っていた王女様に優しく撫でられるのは、思ったよりもずっと苦しい。
あからさまに詰まった声が出てしまう。
「あら、泣かないで……あなたが生き残っててくれて、私とっても嬉しかったのよ」
傷に響かないように、直接触れないように、すべすべした手がそっと背を撫でる。小さく抑えた柔らかな声があやすように降ってくる。その気遣いを受けるべきなのは自分ではない。わかっているのに、甘えようとしている自分が嫌で、あまりにも暖かい腕の中から逃れたくなくて、胸の中を掻き回されるようだった。
「私、私、どうしたらいいかわからない」
きっと混乱していると思われたのだろう。困った笑顔の交じった吐息とともに、少し強く抱き寄せられた。
「大丈夫。大丈夫よ、もう怖いことは起きないから。このままここで寝ていいの。ね?大丈夫」
可愛い赤色のパジャマの袖が目元に押し当てられる。
目擦っちゃダメ、腫れちゃうわよとおどけた声を出し、チャーリーは涙を拭ってくれた。
そうするとますます涙が出てきて、久方ぶりに泣きながら声が漏れた。
片目の潰れた無様な泣き顔を、チャーリーは何度も根気拭ってくれた。
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